さて其の後の話だが「瓢箪から駒」というが、見合い話を本気で持ちかけられて、俺は本当に困った。
幸高の家の口出しと、仙仁の伯父さんの取り持ちの経緯で進んだ福島の話があるので、兄は勿論、老母をはじめ家中が反対なので、一応謝罪お断りしたところ、中灰野のお袋の熱意は遂に仙仁の伯父まで攻め落としての要請に兄も止む無く同意した。
そして大正十三年十月。須坂恵比寿講を契機に、内祝言、丸田支店開業の運びとなった次第である。
其の頃の我町、当時の南宗石町は北西側から村山たばこ店、こよい旅館は建築中。丸田支店、関万、神田、称津。
北東側は上海、タチバナヤ、末広屋、山田土建。通りに面したその他の空き地は桑畑で、夏ともなれば製糸工場から流れ出す蛹臭い汚水はボーフラの生育に最適。其の上、店の裏手には牛舎があり、常に二三頭の牛を飼育していたから、夜ともなれば障子の紙が黒く見える程、蚊の集団に悩まされた。
水は名ばかりの簡易水道があったが、滅多に水は来ないから馬場町の六角堂や須坂繭糸の井戸まで、毎日水汲みに行かなければならなかった。
さて、須坂での寒、土用を一通り経験した大正十五年。昭和天皇陛下即位と共に元号も変わり、昭和の御世と相成り二年がかりの水道も開通し、逐次人家も立ち並び、裏口を開ければ須坂駅が丸見えだったのが、要町が出来てからは駅は視界の外になってしまった。
其の頃、電話の加入やら須坂料芸組合への入会金、水道の引込等々、資金繰りに悩み、俺の持って来た新田南の離山畑を売却して補充した。
其の頃の丸田本店には初ちゃんと武ちゃん(武七)の二人が居り、屠場行や豚集めは専ら俺と初ちゃんの受持ちで、店番は長女智子と次女みつ子を相手に、女房ほか裏方の日課なのだが、夫婦二人とも自足中農の甘い育ち故、慣れない商売なので二年程で本店へ三百円近い借金が出来てしまった。
心底びっくりして、静かに反省しながら借金の原因のを分析して判ったは、毎夜のように本店の親父さんが来て酒を飲み、飲助相手に夜を更かし、馬喰が来て商いをすれば、「清ミ、金あるかや?」で済ませてしまい。手合金やら残金払いをしていただけで、商売の基本帳簿記帳を疎かにしたためだった。
結局この記帳の不充分が累積して、借入金の大半となってしまった。
初めての他人からの借入金。郵便局簡易保険から借りた三十六円も其の頃である。