厳選した国産信州牛すきやき、しゃぶしゃぶ、焼肉の宗石亭[長野県須坂市]

ギュウブロ

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2010年10月25日
本治郎伝 参

海軍軍人生活

海軍五等水兵の私の兵舎第二兵舎方第一分隊第三教班(十五名)
教班長は関野弥太郎一等兵曹で、穏に陽に目をかけて貰った事は忘れられぬ幸運であった。

舞鶴海兵団の新兵生活は、陸軍のような歩兵さんのような陸戦隊訓練とポート漕法で、百姓仕事で鍛えた身体の俺にも決して楽ではなかったが、誰も彼も同じだと思うと、自然と頑張れるようになる。疲れて兵舎に帰り、夕食後別課も終りやがて一日の日課が総て終り、ヤレヤレとハンモックにもぐり、ウツウツ眠りかけた頃、突然ピーピーとパイプの音と共に非常召集の号令。
消灯で暗闇の中で第一種軍装に着替え、銃を持って兵舎の前へ整列。是がたまたまやられるので、イヤハヤなんと新兵とはツライ事!

でも俺は自慢じゃないが、半ば以下の事は一度も無かった。生来の気早さがこんな時は役立った。
やがて新兵生活の五ケ月は大正九年の三月末だ、嬉しい新兵卒業二等巡洋艦対馬に配属!
一ヵ月後総ての航海準備完了。シベリア沿海洲の警備に出航。これが歴史にあるニコライス事変の直後であった。

北海道小樽を根隊地にして、樺太周辺で海上訓練をしながら十一月程、昼の長い白夜は本当に暗いのは二時間位で、北海の生活もいい思い出だ。
「兵隊さん、兵隊さんと呼び止められて、よく見りゃ露スケがヤッコラヤノヤ、パピロス(たばこ)ダワイ(下さい)ハラショ ポニマイ」
是はニコライスクで覚えた歌だ。

やがて秋も深まる十一月末、懐かしい舞鶴に帰港してのアットホームも園遊会もいい思い出だ。
乗船の対馬は大修理のためドッグに入り、俺たちは退艦、海兵団に翌年三月まで待機命令。
大正拾年四月初旬、新軽巡洋艦木曽の儀装員として九州長崎の三菱造船所へ転勤。未だ未完成の艦だ。
現地のかめ旅館に止宿しての通勤で、「これでも兵隊か」と思える生活も一ヶ月、やがて軍艦木曽は完全な巡洋艦の装備終了。艦体訓練が始まり、俺は第一高角砲員に配属、艦隊訓練は勇壮なものだった。
厳しい訓練の末、成績優秀で銀杯を貰ったのも、此の秋だった。

やがて二年目の冬も終った大正十一年四月、英皇太子コンノート殿下奉迎に香港に入港。二三日して英艦の先導をして横浜に入り、英兵と共に休養。隔日上陸も楽しかった。
一週間位だと思うが、また英艦と共に右舷に富士山を鑑賞し、紀州沖を通って神戸港に入港したら「故郷の兄、病気スグ帰れ」の一報を分隊長から知らされ、早速荷まとめして下艦、一旦舞鶴に荷物を預けて帰宅を急いだ。

兄の病気はランプの灯の火傷だったので、深傷ではないそうで安堵したものだった。
やがて二週間の帰休期限も終って舞鶴へ帰って間も無く、世界の列強が米国に集って軍縮会議が成立して吾々八宝兵は帰休除隊の命降り、嬉しい帰宅となったのである。

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