俺は明治三十二年十月一日豊丘村金田で生まれた。
父は坂田今朝吉、母はふで。
父は祖父富吉の長男(次男は市場。現在地に分家)
母は仁礼村仙仁高橋治郎右衛門の次女。
高橋家長男駒之助は教員。県会議員。県参事等も歴任した。
しかし、駒之助は子供が無いので弟菊之助を準養子とし、女五人男三人の子福者であった。
その長女きよが後に俺の兄、五一郎の嫁である。
俺には二人の兄と三人の姉があり、長兄の五一郎は家督相続。次兄今朝冶は早逝した。
長女あさじは日瀧村高橋の井浦五右衛門の長男軍治に嫁入りしたが、身持ちの悪い亭主に泣き、遂に一子、五七郎を連れて離別した。
其の間坂田家は、軍治の酒醸造開業にあたり、資金作りの為に、新町にあった須坂商業銀行に金田の土地山林を担保に入れた為、後に主人の破産の連帯保証人として、大きな損害を受けた事は、俺の幼心に深く沁みこんだ。
次姉とみじも軍治の口入で古平徳蔵(ブリキヤ)に嫁したが、折り合いが悪く離婚。
塩野の山上家と再婚したが亭主の死後、負債整理にあたり、とみじ並びに子供三人を引き取り、須坂馬場町に住まわせた。
三姉はる江は、須坂新町牧よねの次男、東京下谷に住む会社員の儀作に嫁したが、十年ほどで亭主に死なれ、世帯をたたみ実家へ戻ったが、間もなく米子の柳原家へ再婚。
三人の姉、共に全部不幸の生涯だったように思う。
サテ俺の事だが、俺が六才の頃(明治三十七年)日露戦争が初まった。
毎日の様に召集令状が村のアチコチに配られ、毎日その噂ばかりを大人達はしていた。
七才頃だと思うが「ロシア負けた、ロシア負けた」と石油缶(テンコ)を敲いて楽隊行進の真似をして遊んだことを覚えている。
また其の頃だと思うが、ある日門いけの乞食坊主が来て、庭で遊んでいた俺を見て「此の息子は運が良い。
必ず出世して良い暮しをする」とお袋に言ったのを俺は側で聞いていた。
俺は「ヨーシ大人になったらエラクなってみせるぞ」と胸を躍らせた事を今でも忘れない。
大正二年の七月。当時園里尋常小学校は高等科が無く、補習科という準高等科があったが、正規な高等科卒の方が世間通用すると思い、金田から一里余りある小山小学校へ通学した。
その二年目の夏。数年来肋膜炎で苦しんでいた親父さんが遂に黄泉の客となった。
当時お袋が聞かせてくれた親父さんの病気は、土蔵新築の時、裏の山から材木運ぶ際に誤って強く胸を打ったのが原因で発病した、とよく人に話していた。
「大正八年」学校を終ってから後、家で農事に従事していた俺にも徴兵検査が来た。
当時の歌に「ミ徴輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」それだけは御免蒙りたいと思っていたものである。
徴兵検査 國民の三大義務(明治憲法)
1.兵役 2.納税 3.順法
大正八年の初夏。確か六月下旬と記憶している。朝九時より郡役所で検査開始。
午後二時頃には全員終了し、水兵に合格の発表だ。
其の二三日後、抽選通知があり、クジ一番の大当たり。
さて秋も半ばを過ぎ、十一月に這入ると仙仁や河原の家や幸高で壮行会の意味で招待して貰い、入営の近づいた事を痛感する。
十一月二十九日「道は六百八十里、長門の浦を船出していく」の楽隊で送られ、坂田町にあった役場で川上村長の激励の言葉を後にして、馬車で長野駅に至り、県内勢揃い京都一泊翌三十日早朝出発、目指す舞鶴(西舞鶴)の旅館に投宿。
十二月一日入団式後は直ちに軍服に着換え、新水兵さん出来上り。
海軍軍人生活
海軍五等水兵の私の兵舎第二兵舎方第一分隊第三教班(十五名)
教班長は関野弥太郎一等兵曹で、穏に陽に目をかけて貰った事は忘れられぬ幸運であった。
舞鶴海兵団の新兵生活は、陸軍のような歩兵さんのような陸戦隊訓練とポート漕法で、百姓仕事で鍛えた身体の俺にも決して楽ではなかったが、誰も彼も同じだと思うと、自然と頑張れるようになる。疲れて兵舎に帰り、夕食後別課も終りやがて一日の日課が総て終り、ヤレヤレとハンモックにもぐり、ウツウツ眠りかけた頃、突然ピーピーとパイプの音と共に非常召集の号令。
消灯で暗闇の中で第一種軍装に着替え、銃を持って兵舎の前へ整列。是がたまたまやられるので、イヤハヤなんと新兵とはツライ事!
でも俺は自慢じゃないが、半ば以下の事は一度も無かった。生来の気早さがこんな時は役立った。
やがて新兵生活の五ケ月は大正九年の三月末だ、嬉しい新兵卒業二等巡洋艦対馬に配属!
一ヵ月後総ての航海準備完了。シベリア沿海洲の警備に出航。これが歴史にあるニコライス事変の直後であった。
北海道小樽を根隊地にして、樺太周辺で海上訓練をしながら十一月程、昼の長い白夜は本当に暗いのは二時間位で、北海の生活もいい思い出だ。
「兵隊さん、兵隊さんと呼び止められて、よく見りゃ露スケがヤッコラヤノヤ、パピロス(たばこ)ダワイ(下さい)ハラショ ポニマイ」
是はニコライスクで覚えた歌だ。
やがて秋も深まる十一月末、懐かしい舞鶴に帰港してのアットホームも園遊会もいい思い出だ。
乗船の対馬は大修理のためドッグに入り、俺たちは退艦、海兵団に翌年三月まで待機命令。
大正拾年四月初旬、新軽巡洋艦木曽の儀装員として九州長崎の三菱造船所へ転勤。未だ未完成の艦だ。
現地のかめ旅館に止宿しての通勤で、「これでも兵隊か」と思える生活も一ヶ月、やがて軍艦木曽は完全な巡洋艦の装備終了。艦体訓練が始まり、俺は第一高角砲員に配属、艦隊訓練は勇壮なものだった。
厳しい訓練の末、成績優秀で銀杯を貰ったのも、此の秋だった。
やがて二年目の冬も終った大正十一年四月、英皇太子コンノート殿下奉迎に香港に入港。二三日して英艦の先導をして横浜に入り、英兵と共に休養。隔日上陸も楽しかった。
一週間位だと思うが、また英艦と共に右舷に富士山を鑑賞し、紀州沖を通って神戸港に入港したら「故郷の兄、病気スグ帰れ」の一報を分隊長から知らされ、早速荷まとめして下艦、一旦舞鶴に荷物を預けて帰宅を急いだ。
兄の病気はランプの灯の火傷だったので、深傷ではないそうで安堵したものだった。
やがて二週間の帰休期限も終って舞鶴へ帰って間も無く、世界の列強が米国に集って軍縮会議が成立して吾々八宝兵は帰休除隊の命降り、嬉しい帰宅となったのである。
時は六月下旬拾度、春蚕の四眠起きで、農家は忙しい真っ最中だ。
河東線軽便鉄道が屋代から須坂まで開通の三日目のこと、須坂駅開設第一号の帰還兵であった事も思い出の種である。
さて、兵役二年半の空白の故郷は、山河に変りはないが、村人の接する感覚が何となく大人扱いされている気がして、そろそろ将来の途を考えるようになってきた。
其の頃、同級生で陸軍にいった寺村の山岸鶴吉君が俺と同じ次男坊で境遇がお互いに似ているから、話が合うのも当然で、いつしか一つの目標に同調するようになった。
其の目標というのは、当時、朝鮮巡査の募集中であったので、時の駐在(巡査)徳竹さんに内容を聞いたところ、兵役年数戦時加算されるから、三年もいたら恩給がつく、という好条件だったので早速応募する事にして、書類提出の段になっところ、戸主(世帯主)の同意印鑑が必要となり、止む無く兄に意中披歴、同意を求めたところ、考え深い兄だから「よく考えてみる」と至難の気配。
二日ばかりしたらお袋に話したそうで、お袋が大反対で遂に不成功!(帰郷二年目)
不運にも其の年の秋、お袋が目を患い高田市の眼科医院に入院。俺が付き添いだ。
ところが三ヶ月経っても駄目で、翌春思い切って当時有名な秩父の眼科へも行ったが絶望の宣告。其の序に受診した東京大学病院の診察も同様なので諦めて帰宅。自宅療養に専念の身となる。
年老いた全盲のお袋の不憫さを見る俺の将来の夢も、自然と縮みがちとなった。
翌春たまたま幸高町の家から話のあった、福島町の農家への養子話に同意する心持ちになってきたのも、無理ならぬ事と自問自答していたが、けっして満足していた訳ではない。
やがて花咲き春も過ぎた真夏の或る日、突然まったく突然。
裏の畑で農作業中、隣家のおみちおばさんが裏座敷に居て、再三お茶を勧められるので、昼寝起きで暑い盛りだし直ぐ側の畑に居たから断りきれず頂くことにした。だが、誰かお茶の連れが居る事は感じていた。
お茶をよばれ四方山話の中で、俺の婿養子話がでた。其の時同席していたのが中灰野のお袋さんであった。
突然の事だし、チョイチョイ冗談話も気軽に口走るおみちおばさんだから俺も気軽な気持ちで「何分、お頼み申しやんす」とやった。
運命とは全くわからぬもの。「お頼み申す」の一言が俺の其の後の将来の決定付けとなるとは・・・
さて其の後の話だが「瓢箪から駒」というが、見合い話を本気で持ちかけられて、俺は本当に困った。
幸高の家の口出しと、仙仁の伯父さんの取り持ちの経緯で進んだ福島の話があるので、兄は勿論、老母をはじめ家中が反対なので、一応謝罪お断りしたところ、中灰野のお袋の熱意は遂に仙仁の伯父まで攻め落としての要請に兄も止む無く同意した。
そして大正十三年十月。須坂恵比寿講を契機に、内祝言、丸田支店開業の運びとなった次第である。
其の頃の我町、当時の南宗石町は北西側から村山たばこ店、こよい旅館は建築中。丸田支店、関万、神田、称津。
北東側は上海、タチバナヤ、末広屋、山田土建。通りに面したその他の空き地は桑畑で、夏ともなれば製糸工場から流れ出す蛹臭い汚水はボーフラの生育に最適。其の上、店の裏手には牛舎があり、常に二三頭の牛を飼育していたから、夜ともなれば障子の紙が黒く見える程、蚊の集団に悩まされた。
水は名ばかりの簡易水道があったが、滅多に水は来ないから馬場町の六角堂や須坂繭糸の井戸まで、毎日水汲みに行かなければならなかった。
さて、須坂での寒、土用を一通り経験した大正十五年。昭和天皇陛下即位と共に元号も変わり、昭和の御世と相成り二年がかりの水道も開通し、逐次人家も立ち並び、裏口を開ければ須坂駅が丸見えだったのが、要町が出来てからは駅は視界の外になってしまった。
其の頃、電話の加入やら須坂料芸組合への入会金、水道の引込等々、資金繰りに悩み、俺の持って来た新田南の離山畑を売却して補充した。
其の頃の丸田本店には初ちゃんと武ちゃん(武七)の二人が居り、屠場行や豚集めは専ら俺と初ちゃんの受持ちで、店番は長女智子と次女みつ子を相手に、女房ほか裏方の日課なのだが、夫婦二人とも自足中農の甘い育ち故、慣れない商売なので二年程で本店へ三百円近い借金が出来てしまった。
心底びっくりして、静かに反省しながら借金の原因のを分析して判ったは、毎夜のように本店の親父さんが来て酒を飲み、飲助相手に夜を更かし、馬喰が来て商いをすれば、「清ミ、金あるかや?」で済ませてしまい。手合金やら残金払いをしていただけで、商売の基本帳簿記帳を疎かにしたためだった。
結局この記帳の不充分が累積して、借入金の大半となってしまった。
初めての他人からの借入金。郵便局簡易保険から借りた三十六円も其の頃である。