厳選した国産信州牛すきやき、しゃぶしゃぶ、焼肉の宗石亭[長野県須坂市]

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2015年12月14日
「俺はこれだと思った」庸夫と信州牛黎明期 参

 当時の日本の食肉事情は、明治維新により天皇の勅旨として肉食を解禁、政府が奨励し年月を経てはいたものの、組織的な畜産業はまだ発展途上であった。

 明治時代全般に置いても、洋食屋卸の精肉店と外食としてのすき焼牛鍋屋は新しい物好きの男性を顧客として繁盛していたが、肉は食べない人々、台所に持ち込ませない女性たちも大勢存在した。肉料理といえば、現在のバーベキューのように庭先で男達がすき焼や牛鍋を調理し食卓で食す…何だか現在では笑える光景が日常があった程だ。

 生産も流通も消費も明治大正の黎明期から、戦中戦後の空白の食糧事情の哀しい時代を経て、日本は昭和の高度成長を迎えつつあった。
 都会では消費意欲に満ちた人々が畜肉を求め、牛肉だけでなく養鶏養豚事業も各地で初まり、飛躍的な肉類消費量が増えていったが、地元信州はまだまだ田舎で前近代のまま、「牛肉なんて旨くでもない、乳臭いだけだ」などと言われ、生産地なのに消費は振るわなかった。

 しかし、地元が温泉歓楽街であったり、志賀高原がスキー場として大開発の時期を迎えつつある時期を迎えていたこともあり、都会の人々が沢山訪れ、肉類の消費は大きな伸びを見せていた。

 庸夫の家の店の経営状態も、従来の地元旅館業に加え新しく開発された洋食を提供するホテル。そして志賀高原スキー場の大ブームの訪れにより、大きな成長を見せていた。
 いよいよ、時代は仕入れが最重要な課題となってきた。生体家畜を取り扱えない精肉店も、人口の多い街に増え始め、地元以外からも注文が来るようになる。

 農家を回るのも交通手段が小型バイクでは遠征できず、商談と移動の機動力に劣る。庸夫は思い切って当時のスーパーバイク「陸王」を購入した。派手で目立ったが、遊び半分ではなく必需品となる。すでに、庸夫は農家に肥育の相談にも乗るようになっていたし、自分は商談と決済に専念し、運搬は馬喰達に任せる。分業制となりつつあった。