庸夫は心底驚いた。
うちの店が地元ホテルに納品した牛ロースが、皇族の尊い方から高評価を得て、お詞を賜った…。
「俺が地元金倉の農家からあげてきた牛だ…」
信じられない出来事だった。
当時、皇族と接点が有るということは庶民の日常ではあり得ず、少年庸夫にとっては晴天の霹靂。
「俺はこれだと思った」その時初めて家業の存在価値を悟った。
「俺の仕事」が初めて社会から高い評価を得た瞬間だった。
実社会との接点。モヤモヤ鬱々とした日常からの脱却。
これを機会に庸夫は畜産業に励み、夢中に成って行く。庸夫が十代後半のことである。
庸夫の家は畜産業と精肉店を父の代から生業としていた。しかし、父は病を得、若くして逝去。
母と兄二人弟二人妹二人が残された。
すでに兄二人は母を助け商売に励み、店は職人たちと共に大所帯。拠点となる信州湯田中温泉は、娯楽を求める戦後の信州において隆盛の道を登りつつあった。
中学校を卒業し、必然家業を手伝うことに成る庸夫。
しかし、十代の少年には面白くも可笑しくも無い。母は忙しすぎるし、兄達は居るし、職人達は奪い合って仕事をしてるし…なかなか、自分の居場所を見つけられない日々。
とりあえず、ということで、隣町の渋温泉の支店販売所に配属となった。
はじめに…
この物語は、義父庸夫の晩年十五年間の会話を元に、忠実に書いたつもりです。
しかし、元々文書化するつもりなど無かったので、メモなどは一切取っておらず、年代考察の前後不確実、人間関係、私の知りえない真実との不合致などが含まれていると思われます。
親族及び当時の関係者の方々「それは違う」と訂正をお求めにならないようにお願い致します。この読物はあくまで、「ものがたり」としてお読みください。
こういう私小説みたいなものは、私はプロではないので傷つく人が生じてしまうのは頂けません。出来る限り配慮はしたつもりですが、故人やご親族、関係者の方々にに無礼な箇所がありましたら、お許し下さい。先に慎んでお詫び申しあげます。
義父庸夫は筆不精でした。
私の祖父本治郎筆の書額を褒め称え、珍しく羨望の眼差を見せていました。
きっと、「私達や孫の世代に伝えたい」と思っていた畜産人生の話があったと思います。
先日、甥泰匡と食事をしていた際、彼が祖父の若い頃の事を何も知らないことに驚きました。
あれほど君のことを、愛してやまなかった庸夫の遺志を、不肖私が代筆させて頂く所存です。
今のところ、完結しそうもありません…
庸夫が愛してやまなかった、泰匡君に捧ぐ。